乳がんの手術に向けて、私は胸部・腹部CTや骨シンチグラフィなどの検査を受けました。
全身にがんが広がっていないかを調べるためです。
検査の結果、遠くの臓器や骨への転移は見つからず、最初に告げられたステージⅡAから変わりませんでした。
ほっとしたのも束の間。
いよいよ、手術に向けて具体的に動き始めました。
左胸のがんは乳頭に近い場所にあったため、全摘することになりました。
私は両側乳がんだったので、右胸も部分切除。
左右の手術を同時に行うことになりました。
そこで、ふと思ったことがあります。
「もう、大浴場には行けなくなるのかな……」
全摘したら、もう大浴場には行けない?
私は昔から、温泉や銭湯が大好きです。
時間があれば岩盤浴へ行くこともありました。
もちろん、乳房を全摘したからといって大浴場に入れなくなるわけではありません。
でも当時の私は、そんなふうには考えられませんでした。
胸がなくなったら、人の目が気になるかもしれない。
人って、見慣れないものがあれば、悪気がなくてもつい目を向けてしまうことがあります。
誰も見ていなかったとしても、
「見られているんじゃないか」
と、私自身が気にしてしまうかもしれない。
今までと同じ気持ちで大浴場に入ることは、もうできないかもしれない。
そう思うと、とても寂しくなりました。
がんのせいで、左胸の形はすでに歪んでいました。
見た目だけなら、決して綺麗な状態ではなかったと思います。
それでも、
「取らずに済むなら、このままでいいのに」
何度もそう思いました。
だって、自分の胸だもの。
なくなってしまうのなら、せめて私だけは名残惜しんであげたい。
そう思いました。
手術前、最後に銭湯へ行こう
こうなったら、手術の前にもう一度だけ銭湯へ行こう。
後悔しないように。
そう思って、娘と一緒に車で30分ほど離れた銭湯へ行きました。
近所ではなく少し離れた場所を選んだのは、知り合いに会いたくなかったからです。
当時は1月。
体を洗ってから、娘と露天風呂へ向かいました。
雪が降るくらいですから、外はかなり寒かったと思います。
そのせいか露天風呂にはあまり人がいませんでした。
岩に腰掛けている人もほとんどいなかったように記憶しています。
温かいお湯につかって、
「気持ちいいね」
そんな取り留めのない話を娘としていたと思います。
でも私の頭の中では、いろんな思いが駆け巡っていました。
これから受ける手術のこと。
なくなってしまう胸のこと。
そして、手術をしたら本当に治るのだろうかという不安。
夜の露天風呂に降る、白い雪
湯船につかっていると、雪が降ってきました。
暗い夜の空から、白い雪が次々と降ってきます。
夜の暗さの中で、白い雪がくっきりと浮かんで見えました。
本当に綺麗でした。
そして私は、ふと自分の胸を見ました。
がんのせいで形が歪んでしまった胸。
もう少ししたら、この胸も乳頭もなくなる。
ずっと私の体の一部だった胸に、
「今までありがとうね」
そんな気持ちが溢れてきました。
胸を失う悲しさと、目の前に降る雪の美しさ。
いろんな気持ちが一緒になって、気づけば涙がこぼれていました。
でも、お風呂だから顔が濡れていても、泣いていることなんて誰にも分かりません。
それが、なんだかありがたかった。
そのまま雪を眺めていました。
悲しい。
でも、雪は綺麗。
そして、お風呂はとても気持ちいい。
悲しさだけではありませんでした。
目の前の雪が、胸の中にあったつらさをほんの少しだけ溶かしてくれているような気がしました。
気持ちが追いつかないまま、時間だけが進んでいく
がんが見つかってから、時間の流れが急に速くなったような気がしていました。
告知を受けて、検査をして、結果を聞いて。
一つ終われば、また次の予定が決まっていきます。
手術が怖くても、その先に待っている治療が怖くても、そんな私の気持ちなんてお構いなしに、時間はどんどん加速して過ぎていきました。
そして気づけば、手術の日がすぐそこまで来ていました。
自分の人生のことなのに、自分では止められない大きな流れの中にいる。
あの頃は、そんな不思議な感覚がありました。
そんな流れの中で過ごした、あの夜の露天風呂。
今思えば、ほんの少しだけ時間がゆっくり流れたように感じられた夜だったのかもしれません。
今までありがとう
あの夜、自分の胸を見ながら、
「今までありがとうね」
と思いました。
がんのせいで形が歪んでしまっていても、私にとってはずっと一緒に生きてきた自分の胸です。
もうすぐなくなってしまうのなら、
せめて私だけは、名残惜しんであげたい。
そう思いました。
あの夜に見た白い雪。
温かかった露天風呂。
隣にいた娘との、何でもない会話。
そして、もうすぐ失う胸を見つめながら流した涙。
あのとき私は、これからの自分がどうなっていくのかなんて、まだ分かりませんでした。
ただ、暗い夜空に降る白い雪が、本当に綺麗でした。
あの景色を、私はきっと一生忘れないと思います。


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